10世紀後半からカトリックが普及し、11世紀にはドイツ人の植民が行われ、ドイツ化が進んだ。14世紀にプシェミスル家が断絶すると、ドイツ人のルクセンブルク家による支配が布かれた。ルクセンブルク王朝ではカレル1世が神聖ローマ皇帝に即位し、ボヘミア王国は全盛期を迎えた。首都プラハは中央ヨーロッパの学芸の中心となり、1348年にはプラハ大学が設立された。
15世紀にはヤン・フスがプラハ大学学長になると、イングランドのジョン・ウィクリフの影響を受け、教会改革を実施、教会の世俗権力を否定し、ドイツ人を追放したため、フスとプラハ市はカトリック教会から破門された。さらにコンスタンツ公会議でフスが「異端」と見なされ火あぶりにされると、ボヘミアでは大規模な反乱がおきた(フス戦争)。
その後、ハンガリー王国、ポーランド王国の支配を受け、16世紀前半にはハプスブルク家の支配を受けることになった。チェコ人は政治、宗教面で抑圧されたため、1618年のボヘミアの反乱をきっかけに三十年戦争が勃発した。 この戦争によってボヘミアのプロテスタント貴族は解体され、農民は農奴となり、完全な属領に転落した。
18世紀後半には啓蒙専制主義による、寛容な政策と農奴制廃止によって自由主義、民族主義の気運がチェコでも高まった。1848年にはパラツキーがプラハでスラヴ人会議を開催し、汎スラヴ主義が提唱された。1867年のアウスグライヒ(和協)によるオーストリア・ハンガリー帝国の成立はチェコ人を満足させるものではなく、チェコ人をロシア主導の汎スラヴ主義に接近させることになった。19世紀後半には炭田の多いボヘミアではその豊富な石炭を使いドイツ系資本家からの資本によって起こされた産業革命による工業が著しく発展し、中央ヨーロッパ有数の工業地帯となった。
第一次世界大戦後オーストリア・ハンガリー帝国が崩壊し、民族自決の理念のもとチェコスロヴァキア共和国の独立が宣言され、初代大統領にはトマーシュ・マサリクが就任した。このときにボヘミア、モラヴィア、ハンガリーの一部であったスロバキアが領土となった。マサリク政権では西欧的民主主義が布かれたが、チェコスロバキアにおいてはチェコ人が社会のほぼ全てを支配し、スロバキア人と対立した。そのためスロバキア人は親ドイツの立場をとった。チェコスロバキアとして行った外交においては国内の状況がチェコ人支配だったため反共・反ドイツの立場を取った。1935年からナチス・ドイツの圧迫が強まると、1938年にミュンヘン会談でズデーテン地方をドイツに割譲し、1939年にはボヘミアとモラヴィアは保護領としてドイツに編入され、反チェコ・親ドイツ派の多かったスロバキアはドイツの保護国となって、チェコスロバキアは地図から姿を消した。
第二次世界大戦後にチェコスロバキア共和国は復活した。1946年、1940年から1945年までエドヴァルド・ベネシュによって布告されていた一連の法案(いわゆる「ベネシュ布告」)が臨時連邦政府委員会によって可決承認され、これによりズデーテンに多く住んでいたドイツ人やスロバキアに多く住んでいたハンガリー人のほとんど全てが財産を奪われた上チェコスロバキアから追放された(この「ベネシュ布告」は現在のチェコおよびスロバキアにおいても有効であり、どちらの国でも撤回されていない。1946年までチェコに領地を持っていたリヒテンシュタイン侯国はこれを法律による重大な人権侵害だとして、2008年現在でもチェコ共和国とスロバキア共和国を国家として承認するのを断固拒否している)。1946年の選挙で第一党となっていた共産党がソ連からの影響力なども背景に1948年に共産主義政権を設立し、「人民共和国」となった。1960年には「社会主義共和国」に改名した。しかしスターリン的抑圧に対する不満が爆発してノヴォトニー政権は倒された。スロバキア人のドプチェク率いる政権が誕生し、「プラハの春」と呼ばれる自由化・民主化路線が布かれたが、これに対してソ連を含むワルシャワ条約機構5カ国の軍が介入、チェコ人のフサーク政権が樹立され、国内の秘密警察網が整備強化されて国民同士の監視と秘密警察への密告が奨励され、旧東ドイツと並んで東欧で最悪の警察国家となった。人々は相互不信に陥り、プロテスタント教会では信者や聖職者の間での密告が頻発した結果として教会組織が自ら消滅していき、信者は宗教不信から無神論者になっていった。フサーク政権は思想的な締め付けを強めた一方、個人の経済活動をある程度の規模までは黙認し、この「地下経済」によって国内の消費財の生産は活発化した。
外為・南アフリカランド
1989年からの「ビロード革命」によって共産党体制は崩壊し、翌1990年には複数政党制による自由選挙が行われた。1992年6月の選挙では民主スロバキア同盟が勝利したため、それまで互いに反発していたチェコとスロバキアの分離は決定的となった。1993年1月にチェコスロバキアはチェコとスロバキアに平和的に分離(ビロード離婚)した。2002年8月、記録的な豪雨によってヴルタヴァ川(モルダウ川)が氾濫し、プラハをはじめ多くの都市が被害にあった。2004年5月1日にチェコは欧州連合に加盟した。
[編集] 政治
国家元首は、大統領。任期5年、議会による選出。
行政府の長である首相は、大統領の任命。
大統領
FX
ヴァーツラフ・ハヴェル(1993年-2003年)
ヴァーツラフ・クラウス(2003年-)
首相
ヴァーツラフ・クラウス(市民民主党)(1993年-1997年10月)
ヨゼフ・トショフスキー(無所属)(1997年11月-1998年7月)
ミロシュ・ゼマン(社会民主党)(1998年7月-2002年7月)
ヴラディミール・シュピドラ(社会民主党)(2002年7月-2004年6月)
スタニスラフ・グロス(社会民主党)(2004年7月-2005年4月)
イジー・パロウベク(社会民主党)(2005年4月-2006年9月)
ミレク・トポラーネク(市民民主党)(2006年9月-)
政党
社会民主党(?SSD)
市民民主党(ODS)
ボヘミア・モラヴィア共産党(KS?M)
キリスト教民主連合-人民党(KDU-?SL)
自由連合-民主連合(US-DEU)
先物取引
市民民主同盟(ODA)
緑の党(Strana Zelenych)
[編集] 地方行政区分と自治体
詳細はチェコの地域区分を参照
チェコの地方行政区画は2000年に再編され、首都プラハおよび13の県(クライ)に区分されている。
[編集] チェコの県
中央ボヘミア県
南ボヘミア県
FX
プルゼニュ県
カルロヴィ・ヴァリ県
ウースティー県
リベレツ県
フラデツ・クラーロヴェー県
パルドゥビツェ県
オロモウツ県
モラヴィア・スレスコ県
ズリーン県
ヴィソチナ県
南モラヴィア県
[編集] 都市、村、観光スポット
チェコの有名な市・村(地方自治体) 地名 チェコ語名 ドイツ語名 備考、観光スポット、関連項目、サイト
ビーラー・ホラ(白山) Bila Hora Weisenberg ビーラー・ホラの戦い(1620年、三十年戦争)
ブランディース・ナド・ラベム Brandys nad Labem Brandeis an der Elbe ユダヤ人街
ブルノ(ブリュン) Brno Brunn モラヴィアの中心地
ブジェツラフ B?eclav Lundenburg
ブジェゾヴァー B?ezova Pirkenhammer 陶器ブランド
ツィーノヴェツ(ツィンヴァルト) Cinovec Zinnwald(-Georgenfeld) [1];[2];チンワルド雲母(zinnwaldite)の産地。
チェスケー・ブジェヨヴィツェ(ブトヴァイス) ?eske Bud?jovice Budweis バドワイザー Budweiser(ブジェヨヴィツキー・ブドヴァル Budvar)。司教座。近郊にホラショヴィツェ、フルボカー・ナド・ヴルタヴォウ(Hluboka nad Vltavou)、トシェボニ(T?ebo?)などがある
チェスキー・クルムロフ
(ベーミッシュ・クルーマウ) cs:?esky Krumlov Krumau 世界遺産。近郊にホルニー・プラナー(Horni Plana)がある
ドマジュリツェ Doma?lice Taus ドマジュリツェの戦い(1631年、フス戦争)
ドヴール・クラーロヴェー(ラベ河畔の) Dv?r Kralove nad Labem Koniginhof
フリードラント Frydlant Fiedland ヴァレンシュタイン(ヴァルトシュタイン)家
ホドニーン Hodonin Goding
ホラショヴィツェ Hola?ovice 歴史的集落が世界遺産
ホレショフ Hole?ov Holleschau ユダヤ人街
フラデツ・クラーロヴェー(ケーニヒグレーツ) Hradec Kralove Koniggratz 司教座。ケーニヒグレーツの戦い=サドヴァーの戦い
フラニツェ Hranice Mahrisch-Weiskirchen ユダヤ人街
ヘプ(エーガー) Cheb Eger ヴァレンシュタイン暗殺
ホドフ(ホーダウ) Chodov Chodau 陶器ブランド
イヴァンチツェ Ivan?ice Eibenschutz, Eibenschitz ユダヤ人街がある。グイード・アードラー、アルフォンス・ムハらの生地。
ヤーヒモフ
(ザンクト・ヨアヒムスタール) Jachymov Sankt Joachimsthal トレル(ドルの語源)貨幣鋳造
ヤンコフ(ヤンカウ) Jankov Jankau ヤンカウの戦い
イフラヴァ(イグラウ) Jihlava Iglau 銀鉱、マーラー